介護関連

介護士は利用者の何に寄り添っているのか

 デジタル介護士 ぱんあた(Panda attack)です。

 突然ですが、塩分を制限されている利用者がいたとして、お粥に梅干しが1個までと決められていた場合に、その利用者にお粥に梅干しをもう一つ入れて欲しいと言われたら、みなさんはどうしますか?

 1個までと決まっているのでと断るのが正しいのかもしれませんが、こっそりともう一つ梅干しを入れてあげるという人もいるかもしれませんね。

 これに対して、どちらが正しいかということを言いたいのではなくて、前者にも後者にもそれぞれの寄り添い方があると言うことをふと考えたいと思いました。

 というわけで、今回は介護士は利用者の何に寄り添っているのかについてです。

 梅干しを入れることを断る人

 このたとえ話では、お粥に梅干しが1個までと決められていた場合ですから、梅干しを入れることを断るのが当然であると思います。

 どうして断ったかということに関して、組織としての決まりごとなので、全員で守るべきことをしっかり守ったということで、私はとても正しいことであると思います。

 また、利用者の期待に寄り添うことができなかったかもしれませんが、塩分制限を守ったことで、その利用者の命に寄り添った行動であると言えるのではないかと思います。

 もしかすると、本当は梅干しを入れてあげたかったけど、他のスタッフがしっかり断っているのに自分だけ梅干しを入れてあげることで、忠実に守っている他のスタッフが不利益を被ることを考えて、あえて断ったような仲間思いのスタッフもいるかもしれません。

 梅干しを入れてあげた人

 お粥に梅干しが1個までと決められていたにも関わらず、梅干しを入れてあげた人もいると思います。

 その人もまた、利用者の気持ちに寄り添うことができた素晴らしい行動であると思います。

 また、この選択を選ぶことができるのが介護士の醍醐味なのかもしれません。

 看護師ならどうしても命に寄り添うことを求められることが多いと思うのですが、私たち介護士は普段の仕事の中で利用者の生活や心に寄り添う面が多いと思います。

 しかがって、この選択肢は介護士ならでは、また、介護士だからこそしてしまうのかもしれません。

 命に寄り添うのも心に寄り添うのも…

 命と心、どちらが優先されるかは人それぞれの倫理観にもよると思うので、正しい間違いを議論することがおかしな話のような気がします。

 どちらの選択肢を選んだとしても、どうしてそうしたのかと問われた時に主体性を持って自分が考えた末の行動なら、どちらも素晴らしいのではないでしょうか(お粥に梅干しが1個までと決められていた場合、しっかりと怒られるかもしれませんが)。

 相手を思いやり尊重する

 私自身が病院の医療病棟で介護士として勤務している時に、寝ていて点滴をしている患者をたくさん目の前にし、その患者が少しでも”生きている”という状態で生活を送るためにどのようなアプローチができるのだろうかと色々悩んだことがあります。

 ただ、寝ていて点滴をしている状態が”生きている”と言えるのか…もちろんそれも、寝ていて点滴をしている本人が決めることで、よけいなお世話なのかもしれないのですが、もし私が寝ていて点滴をしている状態なら、命だけに寄り添われても辛いだけだと思います。

 ”最後まで生きていたい”。ただ、何を持って生きていると言えるのか、考え方は人それぞれです。だからこそ、塩分制限のある利用者のお粥に梅干しを入れることだけでも色々な選択肢が生まれるのです。

 アプローチは違えど、その人にはその人の考えがあるので、それぞれに尊重をするべきです。自分と考え方や倫理観が違う人のことを排除したり、尊重出来ない人が利用者に寄り添えるはずがないと思います。

 まとめ

 最近、全く聞かなくなりましたが、人生会議という言葉が流行った時期があります。元気なうちにその人の”生きている”とは何かを聞いておけば、私たちも、利用者や患者の大切なものに寄り添えると思うので、人生会議はどんどん実施すればいいと思うのですが。

 些細なことでも、介護士という仕事は選んだ選択が正しかったのか、常に考える奥の深い世界です。ただ、自分の選択が正しいと思って前に進むしかないみたいです。これからも、どうしてこの選択をしたのかを常に意識してアプローチしたいです。